カメラ開発における「価値創造」 価値創造(後編)

真の価値とはなにか。
商品開発にかける情熱やさまざまな壁をどのように乗り越えヒット商品を生み出したのか。

大ヒットしたハーフサイズカメラ「ペン」の設計者が成功体験や開発秘話を伝えます。

2008年5月23日(金) 技術講演会より 第1回「価値創造」

この講演会は社内の技術者・開発者対象に開催されたものです。

(企画・編集 オリンパス・ホームページ戦略グループ)


米谷美久

米谷 美久(まいたに よしひさ)

1933年1月8日香川県観音寺市生まれ。少年の頃からカメラに親しみ、写真を撮ることが好きだった。大学では機械工学を学ぶ。
1956(昭和31)年にオリンパス光学工業株式会社(現在のオリンパス株式会社)に入社。カメラの設計に従事し、「オリンパスペン」(1959年)、「オリンパスペンF」(1963年)、「オリンパスOM-1」(1973年)、「オリンパスXA」(1979年)など、写真業界に一大ブームを巻き起こし、世界のカメラ史に名を残す数々のカメラ開発に携わってきた。2009年7月没。

ライカに追いつけ追い越せの時代に、
手本がなくて真似できないカメラを発想、シリーズ展開へ。

ドイツのライカが、世界のカメラ市場を席巻していました。日本のカメラメーカーは必死にライカの後を追っていた。発展途上の一過程として、和製ライカと称されるライカそっくりそのままデットコピーされたカメラが登場します。当時ライカは20数万円(2年分の給料に相当し、現在の価格で約600万)和製ライカは8万円くらい、ライカの3分の1の値段でした。日本で堂々と売られて使われていました。レンズは同じものを使えるのですから、本物のライカを1台持って、そのサブカメラとして和製ライカを持っていればよかったのです。

私がオリンパスに入ったのが昭和31年(1956年)です。第二次世界大戦後11年、日本の工業技術も向上し、ライカに追いつこうとしていました。そして追い越そうと必死の全力投球でした。

急速に成長する中で、日本の技術レベルは進化を遂げていきます。内部的には、もうドイツに追いついたと思うところまでレベルは上がっていました。そこへライカ「M3」が登場します。それ以前のライカのレベルに、日本が必死で追いつき追い越したと思ったら、そこへ遥かに進んだ「M3」が出て、またも各社が慌てて追いかけることになりました。どこのメーカーも技術的に1機種入魂体制です。発想は常にライカの「M3」に追いつくことであり、追い越すことです。

ところが私が作ったハーフサイズのカメラは、ドイツにもなくこの世に存在しません。真似ようとしても、相手がいないので真似られないのです。ハーフサイズを普及させるには、35mmカメラ並みに一度にたくさんの機種が欲しいけれど、他社はどこもハーフサイズカメラを作っていないので自分で展開するしかありません。ユーザーが、自分に適したカメラを選びたくても、「ペン」は1機種だけしかないのです。それではすべてのユーザーを満足させることはできません。トップからの指示を待っているわけにもいかず、自分なりにハーフサイズ・カメラのシリーズ展開に突入することにしました。

つまりライカを追いかけた1機種入魂という社会情勢の流れに沿うのではなくて、ハーフサイズという新システム全体の広がりを求めざるを得なかったのです。各社が追いかけてきて穴埋めしてくれるまでは待っていられない状況下なので、ハーフサイズを提案した責任上、1社で35mmカメラ並みのシステム展開をして、ユーザーの数を増やそうと考えました。

まずはライカのサブカメラとしての「ペン」を作ろう。そのシリーズとしては、高価なものから比較的安いものまで3種類くらいあればいいだろう。もう1つのシリーズは全自動カメラです。押せば写るという初心者用カメラを3種類。合計6機種による2本立てのカメラシリーズを頭の中で思い描きました。6機種を出せば当面はユーザーの選択が自由になるだろうし、その間は各社が埋めてくれるだろうというハーフサイズ・カメラのシリーズ展開となります。最先端を走る1機種に全力投球する時代の流れに逆らって、技術的に抑えた数種類のカメラを展開しようというのだから、まったく怖いもの知らずの若者だったからできたことでした。

設計を勉強するために与えられた「ペン」も、ただ単に1機種ではなく、これから展開しようとするハーフカメラ・シリーズの基本機のつもりで設計を進めました。「ペン」「ペンS」は平行して設計しましたが、同時にもう1つのシリーズの柱となる「ペンEE」の開発にも着手していました。

このように価値創造を求め、先を読む楽しみを自分で見つけて前向きに取り組んでいったのがこのシリーズ展開でした。他社から、ハーフサイズの追随機種が発表されても、それは展開するペンシリーズの中のどれかの1機種に相当するなと、自分の頭の中ではわかりますから、他社新製品を見ても全然慌てませんでした。次の機種の展開を知らされていない営業は驚くでしょうが、私自身の中では、もう展開済みのどれかに近いカメラが提案されているに過ぎないという判断があったからです。ハーフサイズを提案した時、各社が追随するであろう、追随してほしい、そしてハーフサイズブームを作るのだという大胆な発想で、常にその最先端を走っていたわけです。

目の前のテーマが面白くなるようにと自ら展開するなら、テーマも深堀りされるし、幅が広くなり、発想も柔軟になります。研究者のひとりよがりになることもありません。

8割が賛同する発想には新しさがない。
2割の人たちの支持があるうちに実行へ。

今でこそ携帯電話にカメラが組み込まれていて、簡単に撮影できますが、当時のカメラは高価で使い方も難しかったのです。春の朝はどの組み合わせで、夏の海はどれと、被写体の明るさに応じて、絞りやシャッターを適切に調整しなければ写せませんでした。そんなことから当時のカメラは使い方も難しく、高価で、男性の趣味、嗜好に通じるような特殊な存在でした。スタイルも精緻を極め、全体からかもし出す質感や精密感、操作部材の多さも男性の好みに合わせて作られていました。

そんな時代に女性をターゲットにした、ボタンを押すだけで写るカメラを作ろうと考えたのです。シャッター目盛もない、絞り目盛もない、距離調節もしない、動かすところのない使い方の簡単な全自動カメラですが、そんな発想は私ひとりの勝手な思いだったようです。

当時、カメラの購入者の97%が男性という実態ですから、カメラの新製品は男性をターゲットにして作られていました。3%にも満たない女性層は無視されていたのです。当然のことながら、そんな市場の常識として営業は、動かすところのないカメラはカメラではないと反対されていました。検査協会に「ペンEE」を持ち込んだ時も「オリンパスさん、これはカメラじゃないですよ」と言われたし、大阪の大手カメラ店からも「俺達にオモチャを売らせる気か」とも言われたのです。全自動カメラと考える「ペンEE」の価格についても、「ペン」の6,000円に2,000円上乗せした8,000円の提案でした。

カメラ市場の常識に反した、女性向けのカメラの提案は猛反対にあいましたが、できた試作品を眺めているうちに、昨日まで反対していた営業本部長が「いくぞ!」の号令に豹変しました。それどころか、8,000円ではなく1万円で売るという。みな唖然としていました。

「ペンEE」が市場に出ると、すごい評判を呼びました。最近ではゲームソフトの発売が報じられると徹夜で並んだというニュースが流れますが、当時、流行の最先端を引っ張るのはカメラの役割であり、「ペンEE」も発売前夜から購入者が徹夜で並んでいたのです。

本田技研工業株式会社、創業者の本田宗一郎氏は言っています。「いいアイデアは多数決をとったら、すぐに消えてしまう」とね。京都大学の教授で南極越冬隊の初代隊長だった西堀栄三郎氏は「会議にかけて50%以上の賛同者がいれば、期待されつつ実行に移せるでしょう。しかし、そこから手掛けたのでは遅すぎる。会議で2割程度の人達が賛同するくらいの時にスタートしなければ遅すぎます」と言っていました。購買層のわずか3%しかいない女性をターゲットとした市場の常識に外れたカメラの提案も、当時もちろん会議は通らない。だから説得するしかありませんでした。

独創的なカメラを推進する時、いつもついてまわる問題ではありますが、ひとり、悪者になって憎まれながら説得することになります。こんな時誤解されたり、ひどい仕打ちを受けることもありますが、開発には設計以外にこんな苦しみもあるので、この壁を乗り越えなければ独創的なカメラは生まれません。