米谷美久が語る開発秘話 OM-1~XAシリーズ

花の接写や文献の複写も簡単にできる
ライカより優れたカメラを作ろう

オリンパスに入社する前に使っていたライカは、すごくいいカメラです。特にスナップ撮影に関しては、パーフェクトに近いといえるほどです。ところがこんなことがありました。文献複写などは、今ならコンビニでいくらでもできますが、当時は写真に撮るしかなかった。学生時代に卒論を書くための文献複写の必要があり、自分はライカの名手だからと、ライカで複写を試みました。できませんでした。30、40cmの距離で複写できる装置を持っていなかったからです。

そこでペンタックスのごく初期の一眼レフを借りて文献を複写しました。花を接写するとか文献を複写することは、ライカでできないことはありませんでしたが非常に難しい。それが一眼レフであれば簡単にできるのです。自分が開発に携わるなら、これだなと思いました。

ただしペンタックスの一眼レフは大きくて重い。ライカに比べるとはるかに大きいし重いんです。設計者は一所懸命に小型化を試みているのですが、ライカよりはやっぱり大きい。いつもカメラを持ち歩いている私などにとっては邪魔でしょうがないわけです。

一眼レフの発展は、日本の
カメラメーカーの努力の結実だった

常識的な一眼レフは、買いに行けばあります。では、何がないのか。

一眼レフカメラはもともとドイツで生まれています。「エギザクタ」というカメラです。その「エギザクタ」に、ツァイスがコンタックスSというカメラでペンタプリズムを乗せまして、それが一眼レフの原型です。そこまではドイツ生まれですが、それから後の発展は日本メーカーの努力が大きいですね。ペンタックスが、クイックリターンミラーという機構を作りました。昔の一眼レフは、シャッターを1回切るとミラーが上がりっぱなしで何も見えない、真っ暗でした。それが努力の結果、クイックリターンミラーを生み出し、非常にポピュラーになりました。

もう一つの問題は絞りです。ファインダーで見るにはレンズが明るくなければいけない。だから絞りは開放でいい。だけど写す時は開放じゃなくてF8とかF11とかに絞るわけですね。そうすると、見るときは開放で、写すときは絞る。当時はこれをウィンク絞りと言っていました。「ズノー」という一眼レフのレンズがありましたが、このカメラ用にウィンク絞りが作られました。

こうして日本のメーカーの努力が実って、今現在の一眼レフに発展してきたわけです。ですから、一眼レフはハーフではない世界で立派なカメラに育ってきたといえます。接写もできるし望遠も撮れる。いいところがいっぱいあります。一眼レフそのものに対しては、ある意味では私達も憧憬の念をいだいていました。ただ、買いに行けばあるものを作る気にはなれません。私のフィロソフィーがありますから、さぁ、どうしようと、いろいろ調べたり、自分の経験を生かしたりしながら考えました。

私自身が従来の一眼レフに思いを寄せられない最大の理由を追求していくと、行き着くところは、大きくて重いという問題です。35mmでいえばライカとの大きな差です。私が作ったハーフサイズカメラも何とか小さくならないかなと追求した成果といえます。

本格的システム一眼レフカメラは、
小さく、かつインパクトのあるものを

オリンパスは顕微鏡からスタートして、カメラも内視鏡も開発・製造する光学総合メーカーになりました。

前回も話したように、日本で初めてドイツのフォトキナに参加しました。非常に大きなショーなので、出展するにもお金がかかります。営業部門内で処理できる金額ではないので、どうしても役員会で許可を出してもらう必要があります。フォトキナへの出展が決まると、顕微鏡も、内視鏡も出したいというんです。だけどフォトキナはカメラのショーだからカメラ以外は受付ないという認識がなかった時代でした。

他の部門の役員から言われて担当者が非常に困っていたことを、入社して間もない私は伝え聞いて、いつの日かまとめて出展できるような形のものを作ってやろうと、心の中で思っていました。それで今度一眼レフを作るとなった時には、映像の記録は俺に任せろと、内視鏡も顕微鏡もすべてまとめて出せるようなカメラを作ってやろうと心では思っていたんです。それを称して、本格的システム一眼です。

何でも写せる一眼レフカメラ。しかし、例えば内視鏡の映像はまるい形をしていますが、カメラのファインダーは四角です。普通のファインダーのままでは光が届かない。ファインダースクリーンを交換しなければ使えません。だから、まとめて作るとなると、どうしてもファインダースクリーンを作り替えて交換しなければならないと思っていたんです。

もう一方で、大きいことも何とかしなければいけません。しかし、この発想がすんなりと受け入れられるというわけにはいきませんでした。高度成長期に入って、日本企業の躍進がめざましくなり、その技術力は新しい機能を獲得し、それを商品化へと動いてきました。重高長大、造船、鉄鋼が伸びた時代ですね。だけど私の発想は小さいということなのです。そうでなければ他社のものを買いに行く方が早い。しかし売る方からすれば、小さいだけで何も新しいものが入っていないというのも問題です。

小さいだけなら迫力がない、インパクトがないとなります。従って、商品にならないと。私の発想が理解されるまで、昭和42年の正月から42年の12月まで丸一年かかりました。12月の企画会議では、とうとう私の上司だった櫻井が「よし、米谷の言うとおり小さいのでいこう」と言って決まりました。常識の壁を破るのに1年。強引だったものの、一つの結論にたどり着きました。