私はこう考えました。写している間にミラーが上がっても光の当たる所にバケツを置くと理想の電子シャッターになる。貯めた記憶式は変わる前の明るさを測ったものです。わかりやすいのはストロボです。写す瞬間しか光りません。だから写す前の明るさを測る記憶式ではダメなんです。ではストロボ光でも測れる一眼レフカメラがあるのか。買いに行ってもありませんから、よしそれなら作ろうという気になりました。
米谷美久が語る開発秘話 OM-1~XAシリーズ
小型軽量「OM-1」が
世界のカメラマンの肩を解放した!
「ペン」の設計が終わり、私は課長か部長になっていました。その当時はカメラ事業部があって、事業部から製造部、開発本部が横につながっていました。それで、製造本部が苦労しているらしいという話を開発本部長から聞かされるわけです。開発本部長はもともと顕微鏡開発に携わっていた方ですが、見るにみかねたらしいのです。
「ペン」の設計をしている時の私の上司だった櫻井は、当時、営業本部長でした。ある時、開発本部長が櫻井に電話してきて、「あんなに苦労しているんだから少し寸法を許してやったらどうなんだい」と言ってきたらしいのです。後から聞いた話ですが。すると櫻井は「いいですよ」と返事をしたらしい。開発の親分に呼ばれた私は、そこで2時間くらい、小型軽量化の必要性を力説してしまったんです。てっきりその話を聞きたいんだと思っていましたからね。すると開発の本部長が櫻井に電話して、やっぱりダメだったと言ったそうです(笑)。
そもそも工場の製造本部長が、ニコンの一眼レフの約半分の700gにするために、かなり苦労している、何とかならないだろうかと言ったのが始まりだったようです。とは言っても、これは一眼レフですからね。交換レンズとかシステム全部を合わせると、カメラマンの鞄は6kgか7kgになってしまう。カメラも数台持っていきます。車ならいいが、肩にぶらせげていくには重い。だから、半分の重さにするのはカメラのボディだけではなく、システム全部を半分にする必要があるんです。なにもかも半分となると、6kgの鞄は3kgになるでしょ。この差は大きいですよ。目指すべきは、小型軽量化=ボディの大きさ600gです。
かつて地中海のコートダジュールというフランスの田舎のホテルを借り切って、世界のカメラマンを集めて慰労会を企画したことがあります。その中にドン・マッカランというカメラマンがいたのですが、彼だけが慰労会の場に現れないんです。
ドン・マッカランというのはどんな人かというと、みなさんロバート・キャパはご存知ですよね。キャパの後継者で20世紀の写真展があると、200枚のうち十数点がマッカランの写真だというほど、とても有名な報道カメラマンなんです。慰労会の初日の夜に彼から電話があって「今日はヒースロー空港がストで動かない。申しわけないが今日は行けない」と。
次の日にも電話がかかってきました。「どこですか?」と聞くと、ロンドンの自宅からだと言う。パリまでは行けたのだが、パリからコートダジュールまでの飛行機の席が満員で切符が取れなかったと。パリで泊まろうとしたが、ホテルの予約が取れず、しかたなく自宅に戻ったそうなのです。3日目の夕方、皆がクルージングで疲れてホテルに帰ってくると、マッカランがこちらに向かって来るではないですか。「もう1日しかないですよ」と話すと、そんなことはどうでもいいんだと話し、ただ一言、伝えたいことがあってこの場に来たと言うんです。
彼がベトナムをはじめさまざまなや戦場を歩いたとき、あのような報道写真が撮れたのは、カメラが軽かったからだという。そのお礼を言いたかっただけなのだと。OM一眼レフが世界のカメラマンの肩を解放したことに一言お礼が言いたかったというのですから、もう涙が出ますよね。小型軽量化の本当の意味を理解してくれた。本当に良かったと思えた出来事でした。
こんな中で「OM2」の設計がスタートしていました。
開発に対する意欲の源泉は
自らのフィロソフィーにほかならない
「OM」に取り組み始めた頃、世の中は電子シャッターに向かっていました。オリンパスはのほほんと「ペン」を作っていたので、一眼レフの開発には遅れをとっていました。
少し先ほどの過疎地への首都機能の移転の話に戻りますが、当時の電子シャッターはまだまだ幼稚で、大きい電磁石を都心部に入れています。もちろん大変な努力でそうしています。その苦労に対しては敬意を表したいと思いますが、過疎地に移せばもっと簡単なんです。「OM-1」と「OM-2」は最初から一緒に発想しています。
電子シャッターとは、たとえばここにバケツがあったとします。シャッターが開き、光が来てバケツに貯まっていくものとしましょう。バケツがいっぱいになったところで、シャッターを閉じます。このバケツがコンデンサーであり、シャッターが開いている間光を電気に代えて貯めていきます。一眼レフも光を集めるのですが、光をバケツに貯めようと思っても、ミラーが跳ね上がって真っ暗になってしまうんです。本当は光を貯めている間はシャッターが開いているはずなのですが、ファインダーの中はまっ暗で光が届かない。だからどうするかというと、暗くなる前の明るさをバケツに貯めておいて、真っ暗になった後、そのバケツをバシャーッとあけようというわけです。これを記憶式と言います。ファインダーを覗く前に光を貯めておいて、そのエネルギーで計算してシャッターを閉じようとする。これを最初に開発したのはペンタックスでしたね。
ミラーが跳ね上がったあと、光はどこへ行くのか。フィルムに当たる。フィルムに当たっている光を直接バケツに貯めようということですよね。今考えたら当たり前の話なんですがね。フィルムに当たっている光なら、ダイレクト測光です。しかし、フィルムに当たるとはいっても、フィルムの色はいろいろ異なりますから、全部調整しなければいけないと言われました。それで世界中からフィルムを集めました。たしか50何種類だったと思いますよ。たしかに千差万別でした。しかし反射光を測ってみると、0.1EVの差なんです。これならいけるぞと思いました。
買いに行ってもないカメラを作れるというのは、私のフィロソフィーにぴったりです。おかげさまでダイレクト測光ならストロボ光も測れるし、どんな接写でもできます。オートフォーカスは30cmとかの接写はできません。今度のシステムなら30cmでも10cmでも大丈夫。フォトキナで発表した時には、会場に300人位の世界中から集まった記者がいました。
私が壇上で話す前に、10数個のストロボが並んでいて、シャッターが切られていました。両サイドの10数個のストロボが一斉に光る。できあがった写真には、遠い後ろの端まではっきり写っていました。それは当時では考えられないことでしたから、みなさん感心してくれました。
要するに、変なカメラばかりを作っていたわけです。困ったのは営業じゃないかと思うんです。世の中にないものを売るには、一からPRを始めなければいけない。伝わる人もいれば伝わらない人もいます。「なんだ小さいだけ」と思う人もいます。
半分の大きさ、重さで作れなんて無茶な話ですから、設計陣もずいぶん頭にきたと思うんです。だけど、そういうことを繰り返しながら、写す人が欲しいもの、自分が欲しいと思うものを作る。買いに行ってなければ、作るしかありません。このフィロソフィーに対して立ちはだかる「常識の壁」と「技術の壁」をいかにして乗り越えるか。その努力の結果が、オリンパスのこの段階の歴史だったと思います。
OM開発の背後で、35mmコンパクトカメラに
対する危機感が浮上する
今度は「XA」の方に入らせて頂きたいと思います。
ちょうど「OM-1」が昭和47年に、「OM-2」が昭和50年に発売されました。買いに行ってもないものというのは、ある意味では独創的ですが、ある意味は変わったものと言えますよね。それを作るにあたっては、いろんな方が大変な苦労をされていると思うんです。それを愛用してくださる方というのは、ブランド先行型ではなく、そういう特徴をよくつかんでお使いいただいてる、骨太なユーザーだと思っております。
おかげでクラシックカメラになっても高い値段がついております。ある人に、何でクラシックカメラなのに値が下がらないのかと聞かれましたが、私はクラシックカメラを設計したことはありません(笑)。結果論として良かっただけであって。
「OM-2」を出したころ、営業企画本部の本部長が変わりました。本部長は、元顕微鏡出身の方なんですけれども。この方は統計に詳しくてですね、数値の経過をずーっと辿っていました。
当時、オリンパスは「ペン」が売れて、ハーフサイズでは60%以上のシェアを確保していた35mmコンパクトカメラ分野でも36~7%のシェアを一社で持っていました。それで「OM」を出すことができたんです。全社を挙げて一眼レフを必死で作っていたので、新製品も少なくなり、36~7%あったシェア率が35%くらいに下がってきました。普通ならこのくらいの数値は気がつかないのですが、その本部長が「これを何とかしないといけない」と。「米谷、何か作らないといかんぞ」という話になりました。もともと同じ開発部隊で働いたこともありまして、2人でそんな雑談をしていた時に、お前は一眼で忙しいだろうから、今度は営業で企画するけれどもいいかと言われました。
商品は営業で企画するのが当たり前だし、こっちも忙しかったので、どうぞどうぞと言いました。すると、営業企画本部長から、国内外の営業へ指令がでました。35mmコンパクトカメラ分野は危機であると。このままだとシェア率は35%を割ってしまう。皆で企画しよう、という指示が出たわけです。そして約2週間後、大阪支店の支店長から電話がありました。皆で議論したけれどもいいアイディアが出ない。もう米谷さんしかいない、何かいいアイディアはないですか、と。前後して東京支店からも電話がかかってきたんですよ。こっちは裏話を知っているので、ニヤニヤしながら、こちらも今忙しくてそっちに手を出せないので、どんどんそちらでやって下さいというような話をしました。1か月後に営業企画本部長から呼ばれまして、どうも皆でアイディアを出そうとしたけれども答えが出ない、何とかしてくれないか、という話があったんです。